「観瀾」とは、さざ波を観るという意味です。
観瀾亭は、もともと豊臣秀吉の伏見桃山城にあった茶室を政宗がもらい受けて江戸の藩邸に移築していたものを二代藩主忠宗が1本1石も変えぬようにと命じ、海路ここに移したと伝えられています。
記録によると藩主姫君、側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の巡視の際の宿泊、接待用の施設「御仮屋」として利用されていました。
江戸時代の終わりまで、この敷地内には藩主等に随行する侍の部屋、台所、馬屋など11棟あまりの建物が存在しており、観瀾亭はその中の一部分が現存している貴重な建物です。
観瀾亭の裏にある博物館では伊達家に伝わる武具や装身具、化粧道具、書などが展示されています。
また1/5000スケールでつくられた松島の立体模型もあり、松島の全体図を確認できます。
宮城県宮城郡松島町松島町内56