生野銀山からの神子畑選鉱場跡に行ってきまいりました
旅した日:2019年
突然ですが、私は兵庫県在住です。
突然ですが、わたしは長崎の軍艦島や池島のような産業遺産がめっちゃ好きです。
全然知らなかったのですが、兵庫県にもそんな産業遺産的スポットがあることを偶然に知りまして行ってまいりました。
久しぶりになんかぐっとくるもの見たなぁと感無量。廃墟好きな方はかなり萌えなスポットですので兵庫県に来る機会がありましたら是非足を延ばしていただきたい!!(断言)
日本遺産「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」
兵庫県中央部の播但地域。そこに姫路・飾磨港から生野鉱山へと南北一直線に貫く道があります。“銀の馬車道”です。
さらに明延鉱山、中瀬鉱山へと“鉱石の道”が続きます。
わが国屈指の鉱山群をめざす全長73km のこの道は、明治の面影を残す宿場町を経て鉱山まちへ、さらに歩を進めると各鉱山の静謐とした坑道にたどり着きます。
近代化の始発点にして、この道の終着点となる鉱山群へと向かう旅は、鉱山まちが放ついぶし銀の景観と生活の今昔に触れることができ、鉱物資源大国日本の記憶へといざないます。
とりあえず生野銀山
生野銀山は807年に銀が出たと伝えられるそうです。
織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て、慶長5年(1600年)徳川家康は、但馬金銀山奉行を配置、佐渡金山、石見銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えてきたとのこと。
石見銀山や佐渡金山は結構有名なイメージがあるけど、生野銀山はいまいち知名度がないような気がするのは私だけでしょうか・・?
この日、営業時間に間に合わず残念ながら中に入って見学することはできませんでした。
ちゃんと営業時間に間に合えば、坑道外や中を見学できるそうで、次回はちゃんと時間に間に合うように訪問したいです。
生野銀山は明治元年(1868年)には日本初の官営鉱山(政府直轄)となりました。
明治政府は近代化を推し進めるため、「お雇い外国人第1号」のフランス人技師ジャン・フランソワ・コアニエを鉱山師兼鉱学教師として雇い、コアニエが帰国するまでの10年の間に、製鉱所(精錬所)を建設し、生野に日本の近代化鉱業の模範鉱山・製鉱所の確立をめざした。
明治22年(1889年)には生野鉱山と佐渡鉱山が皇室財産に移され、宮内省御料局の所管となった。
生野銀山の施設の外には明延1円電車の車両が置いてありました。
日本一の錫鉱山だった明延鉱山から東洋一の選鉱場と呼ばれた神子畑選鉱場まで、鉱石を運ぶために約6キロの軌道を走っていた鉱山鉄道。
鉱石運搬の合間に、従業員や町の人の足となって走っていた客車の乗車賃が1円だったので「一円電車」という愛称で親しまれ、昭和60年まで運行していたんだそうですよ!
そんなに遠い昔のお話でもないんだなぁ。とかいうと年齢がばれそうですが(笑
思い出の記録博物館
生野銀山に行く通り道に面白そうな施設が!
兵庫県朝来市生野町にある、おもちゃと漫画の博物館だそう!
神子畑鋳鉄橋
生野銀山から神子畑選鉱場跡へ行く途中で出会った橋。ちょっと注意深く進まないと見落としてしまいそうなスポットです。
日本に存在する鉄橋としては3番目に古いけど、全鋳鉄製としては最古の橋なんだって!
最古の割には結構しっかりとしてて全然古さを感じなかった。
近くに駐車場があって、橋は自由に通行できるようなっています。
アーチ形のフォルムが美しくてモダンな感じです。
神子畑選鉱場跡
橋からさらに車を走らせると突然巨大な神殿の廃墟みたいなものがロードサイドに現れます。
どーんと。
道沿いにこの建物があるので、このスポットを知らずにこの道を通ったとしてもなんだなんだ??ってつい車を降りてしまうんじゃないかってほど、インパクト大です。
こちらの神子畑選鉱場、不夜城と呼ばれた東洋一の選鉱場だったそうです。
不夜城ってなんかすごいですね(笑)金城武を思い出してしまいます。
山の斜面を利用した機械選鉱場はその規模・産出量ともに「東洋一」と謳われたそうで、特に「比重選鉱技術」は国際的にも高い評価があり海外からも視察団が訪れるほどだったとのこと。
なんていうか、廃墟好きにはたまらない佇まい。
ちょうどこの場所を訪れた時間が夕刻で、刻々と暮れていく中で見学したのでものすごく沁みました。
廃墟ってウツクシイ!!
山の上の方は立ち入り禁止になっています。
下から見上げてもよくわからないなぁ
神子畑選鉱場跡のそばには、神子畑小学校・体育館跡があります。
あとからgoogleマップを見て気づいたので、私は言ってはいないのですが、なかなか雰囲気のあるよさそうなスポットでした。