織田信長の家臣で府中三人衆のひとり、佐々成政が天正3年(1575)に築いた平城の跡で県指定史跡。
当時は内堀と外堀がつくられ、城の全域は東西300m、南北350mにおよんだといいますが、今は本丸跡と土塁や堀の一部が残るだけです。
この周辺は白鳳時代に大寺院があった場所で、石垣には古代寺院の礎石が利用されています。
また、土塁から、前田利家が一揆衆を弾圧した様子を記した文字丸瓦が発掘されています。
春は桜、秋にはもみじの紅葉が見事。
小丸城 呪いの瓦とは
天正四年(1576年)5月24日、越前で一向一揆が起こりました。
その一向一揆の際、前田利家が処刑したのはなんと1000人。
1932年(昭和7年)には、文字が彫られた瓦が出土しました。
その内容は・・・・「後世の者に告ぐ。5月24日に一揆が起こり、前田又左衛門殿(つまり、前田利家)が、1000人を生け捕り、磔(はりつけ)そして、釜茹(かまゆで)にして処刑したので、ここに記しておきたい。」
この瓦は、一向一揆衆の1人が、何とか逃げて、生き延び、後に、敵であった信長軍に入り、佐々成政の下で働いた兵士が、この小丸城を築城する時に、こっそりと書いたものだと思われます。
非常に残忍な処刑を後世に伝える、貴重な資料だと言えます。
福井県越前市五分市町28